魔界のとある街で囁かれていた噂話。それは幸福の羊。だが、その羊はどうみても幸せそうにはみえなかった。三つの炎を灯した燭台。闇夜にまぎれる黒いコート。そして、大きな角の生えた羊の頭。どこからどうみても、悪魔の使いのような姿をしていた。だが、確かに彼は、幸福の羊マトンと呼ばれていたのだった。
脱ぎ捨てられた羊の仮面。そして、ついに明らかになった幸福の羊の素顔。その素顔は何かに怯えていた。自白した噂の真相。生まれつきのアフロ頭と角を隠すための羊の被り物、夜が怖いが為に手に持った燭台。いつも逃げていたのは、極度の恥ずかしがり屋な為。そう、彼に罪はなかった。ただの臆病者だったのだ。
いくつかの区画に整備された神界の一区画では、とある情報が駆け巡っていた。下位なる世界で続く争い、そして、そんな下位なる世界の生まれでありながらも、神界へと招き入れられた一人の男がいる、と。アオイデも、そんな男へと興味を抱いていた。彼の体に流れる血を辿れば、必ず創醒の聖者にたどり着く、と。
芸唱神アオイデがたどり着いた創醒の聖者。そして、その血を受け継ぐ男。だから彼は、この世界に招き入れられた。それと同時に、その男が人間として生きていた頃のことを調べ始めた。どうして、彼みたいな存在が。存在していた相反する思想。そして、彼女は神界にもたらされる災厄に震え、救いの詩を歌い始めた。
自分が自分であるために、そして、自分という存在の肯定のために、自分だけの王を欲した神がいた。そんな神が神界に連れてきたのは王ではなく神だった。自分にすがる王がいない神は、神でいられるのだろうか。ムネーメの興味はそこに向いていた。ってことは、つまり。これから始まるドラマに期待を隠せずにいた。
張り込みを開始した芸憶神ムネーメ。これは素敵なドラマになるっす。だが、あっさりつまみ出された。彼女が考える次の一手。だが、実行に移すまでもなく、彼女の前に現れた神。ボクを追い掛け回しているのはキミかい。そして、すぐに彼女は問う。追い求めた男に、こんな形でフラれるって、どんな気持ちっすか。
メレテが気になる情報は、姉二人と異なっていた。かつて、ひとつの世界を滅ぼしてしまいかねないほどの力を手に入れた男。そんな男が、役目を終えた自分を裏切った世界への、戦争の指揮をとっているという情報。だが、その男はどうして、そのような力を手に入れたのか。事情を知るものはみな、口を閉ざしていた。
芸演神メレテがかつて見た悲しみの記録。それこそが、自分の世界に裏切られた男の記録だった。あの時、彼は自分の世界を守りたかっただけなのに。そして、その深い悲しみは長い時を経て、深い憎しみに変わっていた。彼らの争いに、なんの意味もない。だが、その争いは止まる気配を見せようとはしていなかった。
アンタたち、もうちょっと真面目に仕事しなさいよ。ジャンヌは六聖人の間で言葉を発した。特にアンタ、なに考えてんのよ。その言葉は炎聖人に向けられていた。なにを企んでるか知らないけど、アタシも口を挟ませてもらうよ。言っとくけど、これは異常事態。泳がせるには度が過ぎてるわ。例え世界の決定でも、ね。
アタシ達はね、旗を振ることしか出来ないの。だから、彼女は光聖人ジャンヌと名乗っていた。その旗すら、まともに振らなくてどうすんのよ。そして、視線を投げかけた先にいた最後の聖人。アンタだって、放っとけないんじゃないの。だが、問いかけられた聖人は微動だにしなかった。ったく、それでも親なのかしら。
幽闇街ドリードで囁かれる噂。夜道に出現する漆黒の羊。だが、その噂話には、ひとつの大きな疑問があった。その羊と遭遇したとしても、その羊は逃げ出してしまう。人を襲うことはなかった。ゆえに、漆黒の羊は、幸福の羊と呼ばれていたのだった。